ナノ・ソート

杉田敦さんの先鋭的な批評を読んで目を醒ませ。

僕はある時期まで現代美術作品と粗大ゴミとの違いが判らなかった。いまでもあまり理解できていないように思う。この作品解釈の困難さは果たして作家と鑑賞者、いずれに起因する問題なのだろうか。

難解さは現代美術の成立要件ではない。鑑賞者の参与を峻厳に拒むような、自閉的で意味深さを装った作品制作などは手淫と同義である。志なき表現は生産性のない自我の垂れ流しにすぎない。作品の背後にありもしない深遠な思慮の過程を読み取らせようとする狡猾なアーティスト(cf.バーの片隅で物憂げにグラスを傾ける輩)。滑稽な深読みに基づき作品以上に難解な言説を展開して陶然とする評論家(cf.澄んだ水を濁す哲学者)。自らの感性など端からアテにせず作品解説を妄信する観衆(cf.ガイドブックに首っ引きで追体験に終始する旅行者)。この不毛な構図の呪縛からいかにして逃れえるのか。

「わかる人だけがわかればいい」という特権意識に充ちた作家は、アートが本来有するはずの存在意義について明らかに無自覚である。作品を感受させることにおいてテクストすら不要とする杉田氏からの要求に対して、そのようなアーティストたちは果たしてどのように応答するのだろうか。安易な「わかりやすさ」に迎合せず、苦悶と逡巡の果てに産み落とされる結果の無様さに臆病とならないことが、芸術の強度を高める。

本書における終始一貫した主張は「現代美学・・・あるいは現代美術で考察するということ」という副題に端的に表れている。「現代美術について(about)ではなく、現代美術で(via)考察するのである。そこには目的語が付随する(thinking about something via contemporary art)。アートとは、社会に対する作家の問題意識を観る者へ伝え、共有するための手段であって、アートそのものが自己目的化するのは本末転倒であろう。批評する側、鑑賞する側にとってもそれは同様である。

根拠のない選民思想に基づき一部の倒錯者によって特権化された創造性を一般の人々の手に取り戻すこと。本文中で再三引き合いに出されるヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」の意味を改めて噛みしめ、アートの在り様や表現について絶えず問い直し、現代美術に対峙するうえでの批評の視座としたい。

(text:情是)

    fromKYOTO

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