恋人たちは濡れた
大学図書館のブログで日活ロマンポルノを紹介するのは果たしてご法度か?
「男と女がいれば寝る。」江戸時代の有名な歌舞伎作家がそう言った。現実的にそのとおりだし、古今東西の文学や映画などの多くが男女のよしなしごとを題材として取り扱ってきた。実際のつきあいや輾転反側とした妄想までを含め、ヘテロセクシャルの場合は人生の大半を異性との関係に費やすわけだから、創作者が登場人物たちをそのような展開に持ち込むのは当然といえる。
極めて日常的な行為でありながら、公然と口のするのは憚られる性という営みは、なにゆえに隠蔽されるのだろうか。「メディアは性関係に依存しつつ自己保存的に作動するために、性に関する規制を加える」という斉藤環さんの文章を読んだことがある。映画にしろ文学にしろ、性というテーマは規制されるがゆえにこの上ない表現の対象となり、作品にエネルギーを与え、人々を絶えず魅了する。
そしてポルノ映画でしか表現できない男女の悲哀というものがある。生々しく性を描くことで異性間の感情の機微やシコリ、暗くてドロリとしたうねりを表現し伝達する。ポルノ映画なくして日本映画は語れないという人さえいる。ロマンポルノはエロの名を借りた純文学であると思う。
かつて神代辰巳という不世出のシネアストがいた。20代の男たちが抱えるモヤモヤとしたやり場のないリビドーが撒き散らす情景とやるせない倦怠感を描ききる鬼才である。今回紹介した映画だけでなく『赫い髪の女』や『棒の哀しみ』など傑作を多数遺している。男女を問わず機会があればぜひ神代作品を観てほしい。
(text:情是)