ケータイ小説と少女
ケータイ小説を読んで泣けたり、勇気をもらったりできるのは、やっぱり「少女」だからなのではないかと。
数年前、友達に、「『泣ける』みたいなのを売り文句にするのって、どうなの?人が死んで悲しいのは、はっきり言って当たり前だからね。そんな簡単でいいの?そうじゃないでしょ。」と、言われ、そりゃそうだと思ったことがありました。
近頃は技術が進んで、欲しいもの、欲しい情報はすぐに手に入ります。インターネットのページがなかなかダウンロードされなくてイラついてしまう、友人・恋人からメールが返ってこなくて不安になってしまう、でも、実際は数秒、数分程度のことだった。なんて経験ありませんか?そういうときハッとしますよね。ああ、こんなにも私は「待てない」人になっているのか…と。
今、人々はすぐに楽しくなれて、すぐに悲しくなれる、わかりやすいエンターテイメントを求めているのではないでしょうか?レンジでチンして簡単に食べられる「感動」。のようなもの。
ケータイ小説と言えば、セックス・レイプ・妊娠・いじめ・不治の病・恋人の死の話なんだという認識があるのですが、言ってみれば、わかりやすすぎるくらいの記号じゃないですか。それがお皿に乗ってどんどん出されてくる。普通なら一皿でもお腹いっぱいになれるはずなのに。でも食べられる。というのは一皿一皿がライトだからなんじゃないか。いや、むしろ、食べているようで実は食べていないからなんじゃないか。と、思うのです。
石原氏の記述に、「ケータイ小説に「リアリティー」はない。そこにあるのは「リアル」である。」とあり、なるほどなあと納得しました。
想像の産物に「現実らしさ」を感じるのではなく、現実に存在する本物(っぽいもの)を外から眺めている感覚。事実(っぽいもの)をつらねればいいわけだから、そこに文章力がなくていいのも当然のことですよね。
まあ、文章力うんぬんというのはここではどうでもいいんですが、つまり、ケータイ小説を読んでいる人というのは、物語を自分の中に入れて噛み砕き、反芻し、消化している、というよりは、そのファクターをどんどん消費して『わかるわかる』みたいな「気分」を味わっているに過ぎないのではないかということです。話し言葉に近い文章が使われているのも、その『わかるわかる』を促進しているかもしれません。
もう一つ、石原氏がある女性編集者から聞いた言葉の引用で、「女性誌を作るには社会性はじゃまなんですよ、彼女たちの関心は身の回り3メートル以内にしかないんですから。」という記述があり、ふと、先日友人(男子)と話していた時のことを思い出しました。私が最近少女漫画をよく読むという話をすると、彼は「少女漫画って、要は、恋愛してるだけやろ?」と言ったのです。ああ。確かにそうだ。
これらを改めて考えてみると、女性とは主観的な生き物だなあと思いませんか?自分を振り返って考えてみても、一見、深く深く考え悩んでいるようなことでも、実は限られた小さな世界の中で、実体のあるようなないようなものについてもんもんとしている、そういう「気分」になっているだけなんじゃないか、と。
自分の中高生の頃を思い返すと、体力も時間も持て余していたし、無知で経験もないですから、今よりもずっと、いろんなことを真に受けていました。そういう、ヒマで、純粋無知な中高生、ましてや感情的(感覚的)な女子の間で、ケータイ小説なるものが流行るのは、当然といえば当然かな。うん。
おもしろいのは、そういう「気分」の塊のようなケータイ小説を、石原氏がまじめに分析しているところです。これは、ケータイ小説の分析ではありますが、私の心を分析されているような気持ちにもなりました。
言葉(文章)を大切にする人というのは(私もそういう節があるのですが)、そこに固執してしまうことで見落としてしまう何かもあったりするのですが、プロの使う言葉は私のそれよりずっと説得力が感じられ、読むと、心が整頓されてすっと軽くなるような気がしました。
それがいいのかどうかはわかりませんけれども。
そして、どうでもいい、興味ない、と思っていたケータイ小説をほんの少しだけ読んでみたくなりました。ほんの少しだけ。
あなたもいかがですか?
『ケータイ小説は文学か』石原千秋著/ちくまプリマー新書3Fわかばコーナー、910.26||I 74